水口曳山祭ちょこっと話
平成13年4月20日(金)
翌朝、六甲アイランドから通勤ラッシュをかわしながら名神西宮ICに。あとは水口まで1時間余りという、意外にも楽チンな行程である。いつも通り松原町の鵜飼家へ酒をもってご挨拶に。が、留守だったので玄関先に。来年からは松原町か片町田町、作坂町のいずれかの曳山に直接もっていってもいいかもしれない。
(さあ、着いた。)いつも通りの水口神社横の資料館の駐車場に車を止め、参道を歩く。少し肌寒い。桜が満開の年もあるが、今年はもうほとんど終わっていた。ほどなく斎藤さん始め野火の皆さん数人、どっこいの皆さん数人、広島の彩鼓からは華苗ちゃん、かおりちゃんという顔ぶれに出会う。「いつものメンバーが揃ったね。」と笑顔でご挨拶。歩いて数分の場所にある、大徳寺をいったん訪ねて、鵜飼師匠の墓参りをしてから祭りの中へ溶け込んでいく。
数百メートルある表参道には、お祭りにつきものの露店商が立ち並ぶ。(想像通り初の「アレカッテコレカッテ」攻撃が続く。)昼前くらいから徐々に各町内から曳山が参道前に到着し、順番に神社に向かって巡行していき、神前で奉納の囃子(額囃子・大蛇囃子)を演奏してから、神社内の広場に整列していく。後は夕方まで、出揃った各曳山が交代でお馴染みの馬鹿囃子・大廻囃子・八妙囃子などを演奏する「お囃子競演タイム」である。今年の出番は松原町・東町・天王町・平町・旅篭町といった面々。ねだられ負け買ったハム太郎飴をなめながらゆっくり聴いていく。
(参考までに。)この水口町は、現存する曳山の数が近江一円で最大の16基を誇る。全部が一斉に集結するには時間もかかるし、すべてを神社内の敷地に収めるのも不可能(5〜6基分の広さしかない)なので、3年に一度の割合でしか曳山を出せないという計算だ。基本的にはその町の人間がその町の曳山を動かすが、「八妙会」という存在は水口町全体に広がっており、自分の町の曳山が出る年ではなくとも、祭りに出没し、隣り町を手伝ったり、広場などでは町の枠を超えて「水口囃子」の演奏を繰り広げていく。先代会長の鵜飼師匠の町が「松原町」であり、近隣の「片町田町」「作坂町」が出る年にも師匠は参加していた為、我々もそこらあたりの地区によく寄り付くことになっているのである。
(感じた部分。)当然と言えば当然だが、曳山によってそのお囃子の細部は異なっている。八妙会の存在によって横のネットワークが出来ていると感じる部分と、逆にそれによってオリジナル性を出そうとしているように感じる部分があった。例えば今年の松原町は、「大廻囃子」が他の町より極端に遅い。八妙囃子の時、ロックコンサート会場のようなノリをしている町もあった。そうしたなかで、いわゆる「鼓太朗の水口囃子」に必要なエッセンスを模索していく。キーポイントはやはり、笛と、鉦の音色。もっとも水口「らしさ」を感じる部分であり、なのにもっとも表現しきれていない部分である。取りあえず笛は「ドレミ」にとらわれ過ぎないこと。鉦はもっとミュートしてバランスをとること。そして、掛け声。練習の時は、太鼓を打つものも打たないものも、みんなで声を出して雰囲気を作り上げていくようにしなければ。
さらにもうひとつ感じたことは、お囃子の世代交代が進んでいること。我々が最初に訪れた頃は鵜飼師匠が健在で、その御子息の勝則さんや、同世代の修ちゃんと呼ばれる人達が中堅どころで頑張っていて、我々ぐらいの世代が若手(というよりシタッパ?)という構成だった。今回はその若手(ダッタ?)人達が中心で祭りを動かしている感じで、勝則さん、修ちゃんはそれを支えているというような立場に見えた。そしてお囃子のメインで頑張っていたのはそのJr.達の世代だったのである。あの、宵祭りで居眠りをこきながらお囃子の練習をしていた小学生達が、茶髪の大学生になっているのだから、無理はない。特に、勝則さん長男の大太鼓、次男の〆玉、修ちゃん長女の鉦玉というトリオは圧巻で、ひときわ輝いて見えた。素晴らしかった。
さて今年の我々はと言えば、(さらに次世代の)ちっちゃい子供連れなので、ずっとそんな人ごみのなかにいるわけにもいかない。途中で駐車場に戻り、車の中でお昼寝タイム。止めた場所がいいので、神社で次々演奏されていく水口囃子がBGMである。子供を寝かせながら、ちょろちょろと神社に戻り試飲コーナーで地酒・地ビールを飲みながら(ちゃんと買いもしたけど)祭りの雰囲気を満喫する。今年も、来れて良かったなあ。と。
(確実に、時は流れている。1年ごとにこの水口祭を見る度に、その感覚は強く心に刻まれていく。)
(祭りの終わり)夕方になると各曳山は提灯をつらつらとぶら下げ、夜の街道をそれぞれの町に帰っていき(当然水口囃子の演奏付)、また3年後の出番まで自分の町の倉の中で眠ることになる。この道中の、帰り曳山(やま)の風景の美しさというものは、背筋がビリビリ震えるほど感動的である。暮れゆく町並みに浮かび上がってくる幻想的な提灯明かりが視覚を支配してゆき、水口囃子のメロディが聴覚を刺激する。肌寒い夜風が触覚を締めつけ、祭りの終わりとあいまって郷愁の思いを強くする。
ただし、お囃子をやってる方はそんな気分ではないだろう。帰りは、みんなが疲れているだろうと、元気づける為にことさら「八妙囃子」の連続演奏が主体になる。私も7年前、湯屋町の笛不足により異例の町外者の曳山巡行参加をさせてもらったが、1時間近く、八妙囃子を吹き続けるのである。ゆられる曳山の上で、意識がもうろうとして、振り落とされそうになりながら無我夢中で吹いたことを思い出し、心の中で「後少しだ。頑張れ〜」と応援。
水口町の資料館に、毎年1基の曳山が順番で展示される。今年は松原町の番なので、「帰り曳山」はない。展示される番になると、それが資料館に1年置かれる為、町内に持って帰れない。その代わり、若い人達が趣向をこらして、トラックの荷台に即席帰り曳山をつくっていた。さらにこれを機会に、普段曳山が通ることのない細い路地にまで入り込み、裏手の家々の人達を喜ばせていた。
水口の町は、水口囃子とともに、変わらぬ姿のなかで、その中身を確実に次世代へと受け継がれようとしている。さて、我々も頑張らねば。
(実物大という感覚。)その夜はお馴染みの宿「古城」に泊り、翌朝水口の町を発つ。近くのコンビニで食料を調達していると、店員さんに「四国の方ですよね。遠いところからありがとうございます。来年も是非来て下さいね。」と、声をかけられた。どうやら祭りの様子を地元のケーブルテレビが取材していて、私達にインタビューしていたのが放映されたらしい。よく覚えてますね、と感心しながら、いかにもローカルで、実物大の人間関係が、水口の町には、今もある。
帰り道、淡路島を通って香川の実家に寄り、芋の支柱つくり(竹割り作業。ついでに竹バチも作成)と、ピーマンの定植を手伝ってから帰った。ここでの生活も、実物大である。次の里帰りは、ゴールデンウィークの田植え準備。
(とまあ、こんな感じ)である。今回は積極的に笛を吹いたり囃子に乱入したりはせず、静かに水口の人々の動きを見守る感じで時間を過ごした。他の太鼓チームの連中も同じ感じである。今水口囃子は、講習会があったり競演会をしたりして活発に動きつつあるが、町全体としての雰囲気は相変わらずのどかで、少し寂しいくらいの落ち着きがある。変わらないでいて欲しいと、心から願う。終わり